キャメラが手品を捉え損ねるとき またバスター・キートンはいかにして手品的か

手品を扱った映画を見るたび、映画が手品を扱うことの不可能性に思い至る。手品をモチーフにしたり、手品師を登場させた映画は数多く作られてきた。しかしそのどれを見ても、ちらほらと限定的な例外はあるものの、私が優れた手品を見るときに感じるあの感じ──言葉が途絶するような瞬間──を模倣することすらできていない、と思う。映画も手品も、現実とは少し異なるもうひとつの現実を出現させる表現形式である。決して相容れない分野ではないはずなのだ。死や恋や物体の運動や運命や官僚主義といったそれぞれに具体的だったり抽象的だったりする様々な事物について、映画は巧拙の差こそあれ曲がりなりにもその再現ないし模倣をキャメラに収めることに成功してきた。それでは手品だけなぜこのように画面越しだと精彩が消え、死に体のようになってしまうのか。隣接概念と呼んでいいのかは分からないが、チーティング(イカサマ)を捉えたりするようなときにはむしろ生き生きと画面の効果を発揮するのに。

とは言え誕生に伴いシネマトグラフと命名されたその技術は、誕生直後においては驚愕のイリュージョンとして人々の目に映っただろう。1895年、リュミエール兄弟による最初期の映画上映を目撃した新聞記者は、当時の紙面上でその驚きを報せているが、リュミエールのフィルムに存在しないはずの色彩を見たかのように記述しているそうである。これは手品に感動した経験を持つ人が自分の目撃した出来事を語りなおそうとするとき、しばしば実際より大げさに表現してしまったり存在しないはずの出来事を付け加えてしまうことに似ている。

また映画と手品の結節点として、ジョルジュ・メリエスの存在を抜きに語ることはできない。メリエスは19世紀末のパリに名をはせ、自ら買い取ったロベール・ウーダン劇場の舞台に立ってパフォーマンスをしてきた奇術師である。フィルムに様々なトリックを導入し、生涯を通じて非現実の世界を表現することに腐心した。メリエスのフィルムは舞台での手品と入れ替わりで上映されていたそうだし、とりわけトリック撮影を導入した最初期の作品Escamotage d’une dame chez Robert-Houdin『ロベール=ウーダン劇場における婦人の雲隠れ(1896)』などは、ド・コルタの人間消失トリックを直接的に想起させ、彼にとって舞台での手品と映画製作が分け隔てられた表現ではなかったことを窺わせる。

椅子の下に敷かれた新聞紙が、いかにもド・コルタ流の作法である

『婦人の雲隠れ』は当時の観客にとって、まさしく手品と同等の効果を発揮したはずだ。というか、手品そのものと呼びうる体験だったはずである。ただしそれは、映画誕生直後のごく短い期間の観客にとっては、という留保がつく。昔の人々だって愚かではないのだから、映画がどのような性質のもので、どういった内容を表現可能なのかはすみやかに学習したはずだ。メリエスの映画における手品性は急速に色あせ、現代を生きる我々にとってはそれを手品と同一視することの方が難しい。
これは、映画のトリックに関する知識を人々が学び、言わば手品のタネが割れたことによって、手品が手品たりえなくなったということなのだろうか?

それは否定できない原因としてあるが、しかしその説明だけで全てを言い表しているとは言いがたい。映画の画面に手品が現前するとは一体いかなることであるのか考えるためには、手品を体験するとはどのようなことであるかについて考えなくてはならない。

まず原則として、手品の「現象」というのは、現実世界で起こりえない物事である。だからそれは実際に起こっているわけでなく、起こっているかのような錯覚を観客の頭や心のうちに作りだしている。つまり手品の「現象」とは形而下の世界ではなく、観客のうちにしか存在しない。ここにひとつのヒントがある。つまり映画が手品そのものとしか感じられないような何かをプレゼンスするならば、それは画面/画面の連鎖を目撃した観客のうちに生じる心理的な現象であるはずだ。
そして、ここからが手品という表現の極めて変わった部分なのだが、手品を見て驚いたり感動したりするという心の動きは、信じることと疑うことの相克から生まれる。つまり観客は信じながら疑い、疑いながら信じるという矛盾した心理状態に陥らなくてはならない。このことによる心理的負荷は案外高い。そのどちらかに完全に寄りきってしまったほうが、つまり「信」100%か「疑」100%にもたれかかってしまったほうが、人間の精神状態としては楽だし、何より自然である。しかしバロメーターの針が完全に片側に寄ってしまい、信もしくは疑のどちらかが完全に消滅したとき、そのどちらであっても手品は手品であることをやめてしまう。
この信と疑の相克状態は、驚愕したときや手品を目撃したときの常套句として用いられる「目を疑う」という表現に凝縮されている。目はまさしく世界を肯定する装置である。「この目で見たものしか信じない」という言い方もあるように、目によって受像された事物を人が否定することは困難である(本当は様々な誤りや錯覚、死角の付け入る隙があって、手品はそれを利用するのだが)。目によってキャッチされた情報は身体感覚として個人の内側から生じるものなので、人はとりあえずそれに信頼を寄せなければ生きてゆけない。
しかし、理性や常識や世界に対する知識が、目のキャッチした情報を否定する。目の前でリンゴが浮かんだ。常識から言っても科学的知識によってもこのようなことはあるはずがない。しかし目によって、見るがままの世界をひとまず人は肯定するしかない。このとき信じることと疑うことは互いにぶつかり合い、宙ぶらりんの心理が生まれ、判断を保留≒放棄したまま世界を許容するしかなくなる。このような弁証法に導くのが手品における成功なのである(なお手品に限らずフィクション全般に適用される不信の停止という概念があり、しばしば手品の現象に対して援用されるが、この用語における「信」の示す範囲を明確にしないまま粗雑に手品に当てはめるのは危ういのではないかと考える。ここでは深く立ち入らない)。

問題となってくるのは、キャメラという光学装置に、「信」の装置である目の代行が果たせるのかという問いである。これは微妙な問題をはらんでいる。一側面として、キャメラははるかに目より正確に事物を写し取り、繰り返し再現してみせる。しかし映像はその限定性によって、たやすく世界の不完全さを露呈する。つまりキャメラが写し取った現実は、時間的にも空間的にもその外側について一切保証しない。視点は不自由なことに一点に固定され、撮影者の意図通りにしか振る舞わない。

映像が内側から生じた身体感覚と異なり、むしろ外側からやってきたものとして我々の意識をノックするという性質は、映画が映画であるゆえんとして、表現の面白さを担保する部分として人々をスクリーンに引き寄せてきた。しかしこれが手品という形式と衝突する。手品は手品が手品であるために、人々の「疑」を誘発するのだ。観客の現実認識や知識、理性に逆らった何事かを見せようとする。そのとき人は目のようにキャメラを信頼できるだろうか? 映画誕生当時の人間ならできるかもしれない。あるいは物語の中に没頭した人間が、一切「疑」の感覚を刺激されないような状況というのも想定しうるかもしれない。ただし意図的に「疑」を誘発されたとたん、この仮定は崩壊する。

えっと、これはどのように撮影されたんだ? ほかの角度から見ても、今見たとおりのように見えるのだろうか? 画面の外側はどのようになっているんだ? 遮蔽物の裏は? ここに映っている人々はどのような説明をされ、どういった指示のもとここにいるんだ?
「疑」の糸口は無数にある。映像というメディアに慣れ親しんだ人間であればあるほど、無限に疑いの余地を見出しうるだろう。CGIという技術を想定しなくても、映像は人を「疑」に凝り固まらせるのに十分なポテンシャルを有している。その決して引き剝がすことのできない特性、すなわち(空間と時間の)限定性だけで十分だ。それらが編集という手法によって切り貼りされ始めると、もはやすべての「疑」の糸口を検証することは不可能と言っていいほど、総体的な情報量は増す。この映像が持っている巨大な情報量、「手に負えなさ」は、信じるためにも疑うためにも必要な、「全てを一から確認し直してみよう」という観客の試みさえ破壊してしまう。

日常的な身体感覚において、こういった手に負えない情報量などについて意識されることはない。目を開けていたからと言って何もかも見えすぎて困る! と感じる人はいないだろう。しかし映像になるとそれが突然感知され始めるのは、キャメラそして映画が自分の身体と切り離された他者であることに由来する。それは自分の内側から生じたものではないため、もはや白紙委任状としての「信」を委ねられないのだ。何もかも見えすぎて困る人がいないのは、われわれが受け取った情報の大部分をものすごい速度で脳が廃棄しているからにほかならない。それでもわれわれは自身の感覚に「信」を委ね、「ちゃんとずっと目を開けて見ていた」ように錯覚する。このギャップを手品は利用する。映像では、物事はこのように知覚されない。あまりにもすべてが見えすぎ、あまりにもすべてが見えていない……。

メリエスの映画は一時期大変な人気を誇ったが、その勢いは衰え、やがてメリエス家は彼の輝かしい作品すなわちフィルムから銀を削いで生活費に当てねばならなくなるほど困窮する。妖精や悪魔の王国にいつまでも耽溺し続けるメリエスの作風に世間が飽きたという理由もあるが、メリエスが画面上で披露してみせる手品がその頃にはもはや驚異ではありえなくなっていたとも考えられる。それは人々が光学的トリックの仕組みを学んだからというより、映画が自分の目と同一には機能しない他者であることを知り、その表現に馴化したことによるのだ。

では、手品が与えるような感覚を映画が再現してみせることは原理的に不可能な試みなのだろうか。正直なところ不可能に近い、とは思う。しかしどんなことにも例外は存在する。この人の映画を見ることは純粋な手品体験に近いと直観させる映画人が映画史においてひとりいる。その名前はバスター・キートンである。

なるほど確かにキートンは様々な視覚的トリックを用いた作品を作り、現実にはあり得ないことを平然と実現してみせるギャグ(そのようなギャグをキートン本人はインポッシブル・ギャグと呼んでいた)を好んだ。しかし光学的トリックや現実に不可能な出来事は彼の映画の専売特許とは思えないし、何よりメリエスの映画にだって見出せる。しかしメリエスの映画に手品を見出さない今日の観客──私──も、キートンの映画にそれを感じる瞬間はあるようなのだ。では、キートンの映画が目もくらむような手品の印象を与えるとしたら、それはキートンのトリックがメリエスのものよりバリエーション豊かで技術的に洗練されているからなのだろうか?

その説明も、やはりすべてを言い表しているとは言いがたい。キートンの映画がその画面に手品のような印象を現前させていることについて、いま私が言語化できる範囲で2点の理由を挙げたい。

① 彼の作品がコメディという特殊な磁場のもと叙述されていること
② 彼の画面が映画の限定性を隠さないどころか、むしろ前提として利用していること

まず①について、ジョークと手品の構造は似ている。「ありえないこと」を「ありえないこと」であると知りつつ、それに乗っかる、つまり「信じているかのように振る舞う」態度を誘発する。そして「信じているかのように振る舞う」ことは、とりもなおさず「信じている」ことと非常に近い位置にあるのだ。ここでジョークを受け取った相手の内面には、疑うことと信じることの両義性が生じており、喜劇と手品はここで似通う。手品が時おり(演者が口にするジョークによってなどではなく)自然と観客の笑いを生じせしめることがあるのは、経験則として知られている通りである。

そして②についてだが、彼の作品を見たことがあれば誰でも知っている通り、キートンの映画においては画面の限定性を利用したギャグが多い。いくつか例を挙げる。

まずThe Boat『キートンの船出(1921)』の冒頭から。

冒頭~0:17あたり

とくに筋書きの説明は不要だろう。荒波の描かれた挿画から始まり、小型船の内部のショットにて幕を開ける。船は右へ左へと激しく揺れ動き、キートンは歩きにくそうだ。先んじて荒波のイメージを絵によって植え付けられているために、この船が海面で揺れ動いている様子を──つまり未だ目にしていないショットの外側を──観客は想像する。と言うか、その「読み」へ誘導させられてしまう。するとその直後に船全体を外側から捉えたショットへ移行するのだが、実際には船は水上に出てすらおらず、船を繋ぎ止めるための縄に子供がぶら下がって揺らしていただけであったことが分かる。予想されていたイメージと実際の光景との落差が意外性を生み、笑いに繋がる。

次はThe Goat『キートンの強盗騒動(1921)』だが、この作品の中でキートンはひょんなことから警官に追われる身となる(この、「ひょんなことから警官に追われる」というシチュエーションはキートンの作品において頻発する)。

13:17~13:32あたり

追手から逃れるため、キートンは今にも発車しようとしている自動車の後部にしがみつき、ついていこうとする。追手が迫ってくる方向(右側手前)へキートンが視線を向けているうちに自動車が発進するが、なぜかキートンのしがみついているタイヤだけその場に取り残される。訝しみながらタイヤの真ん中にぶら下がっているボードをひっくり返すと「タイヤ修理」とあって、このタイヤは単なる看板でしかないことが分かり、停車していた車の真後ろに重なる形で置かれていたため車の一部に見えてしまっていたことが了承される。

明らかにこの角度、この視点の位置でなければ成立しないギャグである。世界が一方向からしか見えていないという前提に基づき、形の類似や遮蔽によって、キートンの映画の登場人物ならびに観客であるわれわれは状況を誤認する。そして世界が「見たまま」の姿ではなかったことを悟る瞬間、ふっと笑いがこぼれる。このタイプのギャグは彼の作品に多い。

今度は、Neighbors『キートンの隣同士(1920)』における逃走である。キートンはまた警官に追われている。彼の行方に注目してほしい。

6:35~6:43あたり

警官から走り去って、キートンは画面右側(上手)へ消える。その姿を追うようにキャメラが少し右へパンすると、奥に開けた空間が目に入ってくる。追手である警官の視線も誘導に加担して、画面奥へ観客の意識が逸らされた(ミスディレクション!)タイミングで、手前の電柱の上という誰も予想していなかった場所からキートンが飛び降りてくる。映画を見ていて、この不意打ちの出現を予想できた観客はいないだろう。一瞬、キートンが瞬間移動したような錯覚すら覚える。

見えざる画面の外側(右側→奥)へ誤った想像を誘導してから、また別の全く見えていなかった外側(手前、上)からの予想外の出現によって裏切る。このような画面の内外を利用したギャグもキートンの得意とするところだ。

ここまで挙げてきたものはすべて映像の限定性と戯れるようなギャグである。映像における見えていない場所、その不可視の領域をキートンは鋭く突く。これを突き詰めると、映画という形式そのものに絡んだジョーク、つまりメタ形式のギャグが生じる。完全にメタへと転じた一例として、公的には彼の初監督作とされたOne Week『文化生活一週間(1920)』におけるエスプリの利いた一幕を挙げたい。

14:30~14:42あたり

筋書きの説明はいったん省く。主人公のキートンは新婚であり、彼の妻がバスルームで体を洗っている。すると手が滑って石鹸を落としてしまう。バスタブから身を乗り出して石鹸を拾おうとするが、ふとその瞬間何かに気付いたようにこちら側を見やる。突然キャメラマンの手が画面を覆い、再び取り除かれたときには、彼女はすでに石鹸を拾い上げている。

彼女の裸体が見えることを「観客」から隠すというメタ形式のギャグである。このように、映画は不可視の領域を強制的に生み出すこともできてしまう。

さて、映画の中でこの不可視の領域が底の見えない深淵となって現れるのは、「編集」という処理においてである。映像Aと映像Bが接続されたとき、その間にいかなる時間的空間的距離が広がっているのか、誰も論理的に答えを導くことはできない。普段はあまり意識されない盲点として、しかしながら無限に続くかのような穴がぽっかりとそこに横たわっているのだ。キートンがこの「編集」を操ると、以下のようなギャグが生まれる。

キートンのフィルモグラフィにおいても屈指の大傑作Sherlock Jr.『キートンの探偵学入門(1924)』から。キートンは映写技師の仕事をしているが、映画の上映中につい眠りに落ちる。夢の世界の中で、キートンは上映中の映画のスクリーンへと飛び込んでしまう。3分ほどの驚異的なシークエンスを見てほしい。

18:47~21:45あたり

もはや言葉による説明は不要だろう。全く別の時空・シチュエーションを瞬時に招来するという「編集」の魔法を完全に掌中のものとして支配している。この『探偵学入門』は全編が研ぎ澄まされた映像感覚によって構成されており、無声映画という表現形式のひとつの極致とも言えるものだ。そしてその愛おしい結末に至るまで、キートンは「編集」という映画の魔法と戯れてみせる。

紹介してきた一連の引用場面において彼は映画の中でジョークをしているのではなく、映画そのものをジョークにしているという印象すら与える。そのとき観客はもはや窮屈なのぞき穴から対象を窃視させられる立場ではない。かえって映画における限定性の外側=不可視の領域(タネが介在する場所)の存在を知りながら、あえてそこには目をつぶるような共犯関係を画面と取り結ぶ。つまり「乗っかる」のだ。これはキートンが画面の限定性をあえて隠そうとしない態度によっても導かれるものだし、またキートンの卓越した芸が、そのジョークに「乗っかり」たいという観客の「信」を引き出すのだとも言える。
このようにしてキートンは軽やかに、信じながら疑うこと、疑いながら信じることというアンビバレンツな態度を観客から引き出してみせる。そして文字通り、「目を疑う」ような画面のうちに、人はふっと言葉が途絶するような瞬間──手品の感触──を瞳によって感じ取るのである。キートンの映画技術の極めつけとも言いたくなるような『探偵学入門』に関して、キートン自身が失敗だったと語ったことがある。観客があっけに取られて、笑うよりも沈黙してしまう瞬間があったそうなのだ。成功した手品は拍手より先に沈黙を招く。そしてどうやらその手品は、現代のわれわれに対してもきちんと機能するようである。

さて、映画において手品を表現することは可能だろうか? 少なくともバスター・キートンはそれを可能とした。しかしそれは並々ならぬ計算高い技能に基づいている。その天才性を模倣することはできるのか? 分からない。難しいことではあるだろう……。

少なくとも、手品を見ているときと全く同じような感覚を惹起する画面があるとすれば、必須の条件は実際に手品を行うこととかCGIを撤廃することなどではない。その画面ないし画面の連鎖は、どこかに不完全な限界を露呈しながら、それを隠そうとしない態度を示す必要がありそうだ。隠そうとしてはいけない。隠されている気配を察知すると、観客は「自分の知りえない疑の余地が無数にある」というところで判断を終了してしまう。そうではなく映像の不完全性を映像の側で自覚し、「疑」の介入する余地に観客を誘い込む。その上で、観客が自発的に「信じたい」と思わせるような力を生じさせ、画面世界に生じたギャップを観客の「信」が埋めるような構造にする必要がある。画面の不完全性、世界のギャップを拠り所として、観客の中に相克する力を生じさせる。ただ、そうとは言っても観客から「信」を引き出すのは至難の業である。キートンのような卓越した芸を提示する必要は必ずしもないが、あれと同じぐらい強い引力がなければ画面上に紡がれようとしている非現実に観客が乗っかることはないだろう。そのような自発的な「信」を生じせしめるだけの強い求心力こそが、映画の画面を通じて手品という脆く壊れやすい心理現象を観客のうちに引き起こすはずである。その求心力がいかにして達成されるかということについて、残念ながらいま私の提示できる具体的な回答はないと申し添えておかねばならない。

最後に、キートンの研ぎ澄まされた映画表現が手品と呼ぶことをもためらわせるような何かへと変貌している瞬間について指摘しておきたい。一連のシークエンスは再び『文化生活一週間』のものだ。改めて筋立てを説明しておくと、新婚のキートンは妻とともに「組み立て式マイホーム」を建築するが、恋敵の妨害などもあって滅茶苦茶な家を組み上げてしまうという作品である。先ほど引用した場面の直後から。

14:42~15:20あたり

上のシークエンスでは最後の仕上げとばかりに煙突を煙突孔にはめ込もうとするが、キートン自らが穴に落ち込んでしまう。と思うとその真下はなぜかバスルームになっており、バスタブの中へはまり込んだキートンは、シャワー中の妻に追い立てられてバスルームから外に出る。するとその扉はいきなり2階の家外へ繋がっていて、キートンは回転するように地上へ落下する。

ギャグの滑らかさと、一方「繋がらないはずのものさえ繋いでしまう」編集という技術の暴力性が組み合わさって、ほとんどシュルレアリスム的印象さえ見るものに抱かせるシークエンスである(『探偵学入門』での一幕しかり、このような瞬間はキートンの映画に少なからず存在する)。
ここで注目してほしいのは、家の構造である。結論から言ってしまうと、このような家を建築することは不可能だ。煙突の真下に風呂場があるのはおかしいとかそういった話ではなく、ここでは一連のシークエンスにおいてキートンが画面の右に向かって移動した距離を確認してほしい。つまり家の内部において歩いた距離のことだが、せいぜい2、3歩である。しかし家の左端のほうにある煙突から落下したはずのキートンは、なぜか家の右端の扉から地上へ向かって落下する。空間が圧縮されねじ曲がっているとでも仮定しなければ、この繋がりを物理的に説明する方法はない。
重要なのは、このような明らかな画面上の矛盾に誰も気づかないことである。おそらく初見時においては誰もが笑っているうちに見逃してしまったはずだ。そして笑いのうちに、我々は繋がらない繋がり、矛盾した画面の連鎖を信じ込ませられてしまっている……

これは何だろう? 手品に似ているが、それともちょっと違う、それ以上の何ものかと呼ぶのは過言だろうか。手品師の芸に感心しているうち、掏摸に財布を持っていかれたような気分でもある。軽妙なギャグを見て笑いながら、それと気づかぬうちに画面を「信じ込ませられている」このような瞬間は、きっとまだまだ彼の作品のうちにあるような気がしてならない。

参考

マドレーヌ・マルテット=メリエス『魔術師メリエス: 映画の世紀を開いたわが祖父の生涯』/柳下毅一郎『興行師たちの映画史: エクスプロイテーション・フィルム全史』/濱口竜介『他なる映画と 1』

映画史的な記述については、趣味の文章ということで詳細なチェックを行っていない。誤った記述は筆者の不明に帰する。

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